中國西域旅行記 - その 14 -


23.トルファン憧憧

(8月15日(7日目)続き)

 もう九時(北京時間)近くになっているが、まだ夕暮れというには早い。 街の中に向かうにつれ、道沿いのポプラ並木は同じように細く背の高い ニレの木にとって代わられ、その根本にサラサラと水が流れる。 郊外の炎熱と乾燥の砂漠から帰ってきた私たちには、それがまるで 奇跡のように美しく感じられる。砂漠に吸われ、伏流水となった 天山山脈の雪解け水がトルファン盆地の底のこの街には湧き出しているが、 更にカレーズ(イランではカナールと呼ばれ、英語の『運河;canal』の 語源でもある)と言われる疎水トンネルが砂漠の下を掘られており、 トルファンの水をこれでまかなっている。

 オアシスホテル(緑州賓館)で少し休憩したあとで、午後九時過ぎから 夕食になる。羊や牛らしい肉料理が中心だが、もはやなんという料理かは ほとんど分からない。我々と言えば、もうすっかりドンブリ飯におかずを ごてごてと乗せて食べるご当地風のやり方が身についてしまっている。 ほとんどのメンバーが二日酔いを起しやすい甘ったるいビールに懲りて、 舌に色が付きそうなジュースを飲んでいる。

 9時45分、トルファン名物でもあるトルファン賓館の中庭で行われる ウイグル舞踊団を見に行くことになる。そこまで少し距離があるから、 大きな荷車をロバで牽かせた「ロバタクシー」で行くことになるが、 その運賃を聞いて驚く。なんと一人8元(当時のレートで約210円)だと いうのだ。ガイドブックにもハッキリ書いてあるはずだが、相場は せいぜい0.1元(3円弱)、ふっかけても1元なのに、8元とはとんでもない 暴利である。しかし、ロバ車を用意されているのに俺は別なやつに 乗るとも言いにくい。皆ぶつぶつ言いながらも、結局乗ることになる。 ざっと見て150元がガイドの懐に転がり込むことになる。10元以下で 一日暮らす人も多いこの国では大金だ。かくのごとくガイドはおいしい 職業なのである。やはり、どっさり運賃をもらうことになったらしい ロバタクシーの少年は大はりきりで満員の荷車をもたもたと牽く ロバをせかすが、普段からの面倒見が悪いのかロバの方もがんとして 言うことを聞かない。さんざん少年にはたかれて、抗議の いななき(悲鳴?)をしてから漸く速度が上がる。やがてロバタクシーは 通称『バイバイストリート』に入る。多分日本人観光客の 影響なのだろうが、このあたりの子供たちは外国人を見るとバイバイと 手を振るのだ。お陰で、観光客気分をたっぷりと味わえる(か?)。 地図を見てあとで分かったが、どうやら馬車はわざわざこの通りに 遠まわりしたようだ。見事なまでにあざとくて感心する。

 トルファン賓館前の通りは上が全部ブドウ棚で覆われていて、 小粒のブドウがたわわに実っている。やはりブドウ棚の下にある ホテルの中庭は、すでに日本人と中国人とインド人とヨーロッパ人が ごちゃごちゃに混じって出来た人垣で何重にも取り巻かれている。

 最初に四人の女性と二人の男性が出てきて踊る。来日講演もした ことのある舞踊団の踊りは流石に敦煌のホテルで見たものに較べると 洗練されている。だが、日本人も中国人もインド人もワイワイと うるさい上に、バチバチと強烈なフラッシュがたかれ続けるのが 興をそぐ。騒がしさの中でつぎの女性の独唱が始まる。 これが素晴らしい声!、高く高く、遥か遠くへと届く声、蒼い空と 草原のイメージがわき上がって来るような歌だ。次は日本語で 「ウイグル族の青春の歌」を歌う……。 次からは「マシェラップ(豊作の歌)」の歌声に乗ってくるくると 舞い踊る踊りが続く。これが唐の都長安で「胡旋舞(こせんぶ)」と 呼ばれて大流行し、日本に入って雅楽となった踊りなのだ。 そして、水の入った茶碗を頭や手に載せて回って踊る「盆の踊り」、 トルファンの古い楽曲、また歌とくるくると舞う踊りが続いて、 最後は飛び入りと一緒にみんなでくるくる踊る、さすが地元の人は 子供でもうまい。まわるまわる世界はまわる。 みんなまわってはいおしまい。

 トルファンのバザールは午後6時で終わってしまうとのことで、 なすすべもなくホテルに帰る、疲れた。ホテルに帰って列車で運んだ 荷物の中身を確認すると、鞄の横のジッパーが開けられたらしく ハサミが盗まれていた! この旅行一ヶ月前に行った白馬山で前年傷めた 左膝を再び傷めたため、市販の湿布を切って膝に貼るためにハサミを 持ってきていたのだ。まさか、こんなものが盗られるなどとは思いも しなかったが、無くなると困る。探してみると敦煌でハミ瓜を切るのに 使った貰いもののゾーリンゲンの小型ナイフも無い。盗みは重罰なのに、 なぜあんなものをと唖然とする。他の部屋に行くと、高桑氏も やはりリュックを開けられて、未使用の使いきりカメラを盗られて しまったとか。基本的に盗みに理屈は無い、有るから盗むのだが……。

 結局、ハサミは山崎氏から借り、無事湿布を切って貼る。まぁ、 盗られたものは仕方が無い。ここは御当地風に神の思し召しの ままに(インシャラー)……で割り切った方がいい。蘭州以降は テレビも見ていないので世界の様子どころか日付さえも怪しく なってきている。今日は何の日だったかを思い出すことも無く オアシスの眠りが安らかに来る。


(8月16日(8日目))

 今日のモーニングコールはいつもより遅く八時(でも夜明け直後)、 きっと昨夜一番死んでたのはガイドのN氏と黄(ホアン)さんだろう。 10時にはもうウルムチに向けて出発することになる。残念だ、 もしフリーでこの辺りを旅行する機会に恵まれたなら、この トルファンにはぜひ長期滞在して欲しい。長くいなければ良さが 分からない街である(*1)。

 ところで、今度の交通手段はバスである。大型ジェットで上海・西安に やってきて、小型ジェットで敦煌へ行き、鉄道でトルファンに辿り着いて、 ウルムチへはバスで187キロのみちのりを行く。もし、次の西への目的地が あれば、きっと自転車かロバで行くことになっていたろうと思われると ウルムチで終わりだったが残念でならない(*2)。

 もちろん、トルファンの街にも名所はあるので、ウルムチに向かう前に 寄ることになる。まずは蘇公塔(そこうとう)と呼ばれる塔のある イスラム寺院へ行く。1779年にトルファン郡王の蘇来満(そらいまん)が 造らせたと言う。築190年以上の古さを感じさせる。暗く見えるぐらい 晴れ渡った蒼い空を背景にして、すっくりと立った塔の姿は思いのほか 柔らかで優しい。六本のミナレット(尖塔)が建った格式の高いやはり 古びた寺院の中に入る。今はがらんとした礼拝堂はほの明るく、 床には葦を編んだゴザが沢山残っていて、朝の礼拝の雰囲気のような ものが残っている。そばの土産物屋の軒先で黄(ホアン)さんが 乾しブドウをビニール袋で二袋一杯買い込む。ショルダーバッグに ぎっしりと詰まった乾しブドウは6kgほどもあるだろうか? 「職場の仲間へのお土産」だとのこと。つられてツアーの連中も 結構買い込む。帰ってから食べてみたのだが、日本で食べられる アメリカやスペイン産の水気の多いものと違って、ここの乾しブドウは ほぼ乾燥しきっていて、ある意味で本物の“乾しブドウ”(別の意味では “ブドウのミイラ”)と言える。味は素朴の一言で、まあまあ美味しい。 帰ってから押し入れに一年間ほっぽいて置いても、悪くも、 美味しくもなっていなかった。

 次は、カレーズの見学とぶどう狩り、やはりトルファンのぶどうを たらふく食べずにはここを出発できない。カレーズは我々の行った ぶどう園の地下にあり、埃っぽい階段を7〜8m降りたところで、 澄んだ水がトンネルの中を流れている。並木の根本を流れる濁った水を 見て心配していたが、ここの水は完全に澄んでいる。日本人が海外で 腹痛を起す原因No.1は生水なのだが、サラサラ流れる冷たい水はとても おいしそう。中国に来てから誰も生水どころか、お茶やビール、 ジュース以外の飲物は飲んでいない、そろそろ冷たい水をぐっと一杯と いうのが懐かしくなっている。「大丈夫かなぁ?」、そう言いつつ誰かが もらったひしゃくで一口飲む、「うまい!」。つばを飲み込む音がする。 あとは「やられるなら、みんな一緒よ」の一言で勢いが付いて結局全員が 一口は飲んでしまう。天山山脈とボゴタ山脈からひいて来た雪解け水の 味は清冽で、とても数十キロも地下を流れてきたとは思えないほどうまい。

 そして、すぐ上のぶどう園でカレーズの水で冷したぶどうをパクつく。 一人一元(≒26円)でほぼ食べ放題。ぶどうは小粒のマスカットと言う 感じで、皮を取りにくく、どうしてもいくつかはそのまま食べてしまう。 そんなに甘くないが、この乾燥しきった空気のなかでは本当に美味しい。 もちろん皮のまま果物を食べるのも食当りの原因になる。 しかし、結局ツアコンN氏とガイド黄さんを含めた21人とも誰もどうにも ならならなかった。この一行には最後までこうしたしぶとい 悪運が付いて廻った。

 前の道を、次々とロバ車が通っていく。のどかな活気を見せるこの オアシスの村とも別れるときが来た。この旅も八日目ともなると次の 食事が美味しいとは限らないということが分かってきてくる。 残ったぶどうの房をビニール袋に詰め込んでおく。

 11時、吐魯番(トルファン)発、ウルムチへと砂漠の中を北西に向かう バスの天井でぶどうの入った袋が揺れる。


*1) 同時期にこのトルファンに長期滞在した人の話では、このあとに トルファンの盛大な“ぶどう祭”という夏祭りがあり、その後なんと! あのアントニオ猪木が何かのテレビ番組の企画でやって来て、 街をパレードしたとのこと(どうも下痢になっていたらしい……)。 番組はお蔵入りになったようです。

*2) 冗談です。空路はもちろん、今や鉄道でさらに先まで行け、 この直後のソ連邦崩壊で、あのシルクロード取材班でさえ通れなかった 中ソ、いや今は中ロ? かな。あれ? あそこは今はカザフスタンや キルギスタンだから……うーん、中学あたりで覚えた世界地理の 知識がチャラになった高校生がつくづく気の毒!、とにかくその 禁断の国境も通れるようになったそうです。


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