中國西域旅行記 - その 10 -


16.莫高窟(モー・カオ・クー)

 伝承によるとAD366年に修業僧・らくそんが河西四郡(AD121年頃、 漢の武帝により設置)の最西端の敦煌郡の砂漠を修業の地を求めて行脚していたところ、 岩山の岩壁が黄金色に輝いてみえた、おぉこれは有難やという訳で、 岩壁に石窟を穿って霊場とした……のが莫高窟千仏洞の始まりである。 ひょっとして、陽を遮るものとて無い砂漠でらくそんさんはひどい日射病に かかっていたのでは? これ以降、約千年に渡って千近い石窟が掘られ、 492窟が現存する中央アジア最大の霊場となった。

 旅行6日目、ついにこの旅最大のメインイベント莫高窟を見に行く日だ。 朝7時、まだ夜明け前に起きる。 もう人々は働きだしていて、ロバ車が何台も敦煌の街を目指してやって来ている。 やたらと炭水化物が豊富な朝食をつめ込む。

←朝の敦煌の町

 さて、昨日のバン二台で出発! スルーガイドの王さんがカセットを取り出しセットする……ウーン、 やはりここはまた喜多郎の曲だなと思って、狭いバンの中の面々が 黙って曲の出だしを待つ……と、女性の歌声、エ? テレサテン? 王さんが慌てる「あ、裏面だった!」。当時、テレサテンは中国では大人気歌手だった。

 街を出るとすぐ、白い砂塵の舞う中、フロントガラスの視野一杯に広がった荷車、 ロバ車そして自転車とすれ違う。 やがて、昇ったばかりでもうまぶしい太陽が並木の切れ目から明滅し初め、 高く細いポプラ並木がまばらになり、ふぃと姿を消す。 畑があっという間に色褪せ荒野に変わる。地平に消える道に脇道が現れ、 黒いT字を白っぽい大地に描いている。右手には砂漠が拡がる。 車がぐいと右に曲がる。『飛天』が車内に流れる。誰もが黙ってしまう。 それぞれの想いと眼差し。エンジンの響き、陽差し、青空、砂漠。 日本から西へ約4000Km、莫高窟・千仏洞が目の前に現れた。

莫高窟へ向かうポプラ並木道→

 『莫高』とは砂漠より高い所という意味で、恐らくは今は水量も乏しい大泉河が 削り取って出来た崖が、鳴沙山と三危山とに挟まれたなだらかな谷のような ところにある。植林したのか、ここだけはポプラなどの木が繁っている。

 橋を渡り前門へ、ここからはバック、カメラの持込みは不可となる。 普通売店に預けるのだが、外で待つというツアコンのN氏に全部持たせてしまう。 カメラとバッグを鈴生りにして皮肉屋のN氏が言う、 『これぞ究極の日本人旅行者です』。 団体(たった十数人だけど)の強みか日本語の話せるガイドがつく。 いきなりポプラの木を指して言う「この木は地元では風が吹くと拍手しているように 聞こえるので『鬼拍手』といいます」。 はなからガイドの機嫌をそこねてはまずいと、感心したふりをして聞く。 だいたい窟は三層に重なっているようだが、井上靖の本では これが実は四層ではとも書いてあった。 基本的には崖を穿って窟とし、わら漆喰で壁と塑像を作って、最後に絵を描くという 手順で造られたらしい。 王族や豪族がパトロンとなった大きな窟から、人一人が入るのがやっという窟まで 種々様々ある。窟への通路はコンクリートで固められ、鉄柵まである。 NHKのあの番組で人気が出てこんな工事したんだとその時は思ったが、 帰って昔録ったテープを見るとその頃から今と同じだったようだ。 カメラワークのなせる技である。

莫高窟遠景(部分)↓

 まず最初は、外からでも一目で分かる九六窟、北大仏殿、 中に入るとほっとするくらい涼しく、薄暗い中に巨大な仏像がそびえる。 我々の頼り無い懐中電灯の光が群盲象を撫でるの諺通りに巨大な仏像の上を走る。 その次の次には北大仏と並ぶ、高さ26mの南大仏の窟へ、弥勒仏である。 一応、言っておくと弥勒は56億7千万年後(!)に地上に降りて釈迦の救いに漏れた すべてのもの(人間も、魔物も、神も、あいつもこいつも)を救うという仏である。 善だ、悪だという選択や最後の審判めいたことはしない、 唯(ただ)一切を救うのである。 他の血生臭い宗教に比べれば格段に好ましいが、いささか満期までが長過ぎるのが、 かえすがえすも残念である。 ところでシルクロードは古代の東西の人々の一大交流路であったが、 神様も盛んに“交流”していて、例えばこの弥勒菩薩、 元々はペルシャの光明神アフラマズダのことで、 ゾロアスター(BC630頃生まれ)によりゾロアスター教(拝火教)として広く流布し、 インドのヒンドゥー教に取り入れられアスラ神族の長ミトラとなり、 やがて仏教にも取り入れられ弥勒となるのである。 アスラというのはすなわち阿修羅(あしゅら)で、 インドではその長の別名をバイローチャナと呼んだ。 後に仏教に帰依した彼(?)を漢字で書くと毘盧遮那(びるしゃな)、 別名盧遮那仏(るしゃなぶつ)となる。 そう! 奈良の大仏様の本名(?)です。 これでペルシャから奈良まで繋がったことになる。あぁ、憑かれた、じゃない疲れた!

北大仏殿→

 結局、午前中に見れたのは七窟だけ、ここで昼食と休憩のため、 一旦、敦煌の街にもどる。

 ツアコンのN氏から、多くの日本のツアーではこの人類の遺産をたった半日、 10窟程見て次の目的地に出発してしまうというトホホな話を聞く。

 手抜きと言われればそうかもしれないが、莫高窟の内容にはあまり詳しくふれません。 莫高窟の写真集や本は山と積んで登れてしまうほどあるので そちらを見ていただきたい。 私は本と体験のギャップを埋められるほど器用じゃありません。 不満な方はぜひそこに行って、出来れば何日か滞在して下さい。 (団体客の後についていけば、日本語の解説がきけます)

今回のあとがき

 誤解の無いように言っておくが、私は京都に7年住んでいたこともあって、 京の古寺名刹に巣くう僧どもは大嫌いである。 その金欲は凄まじく、日航機墜落事故の遺族に故人の霊を慰霊するには 補償金を全額寄付しなければならないと迫った某本山の話は有名である。 さて、広辞宛によると弥勒というのはいわゆる未来の仏ですが、 現在仏のブッダ(釈迦牟尼)の前には七人の仏がいるそうで、 過去七仏の最後である迦葉(かしょう)は莫高窟では弥勒、 釈迦牟尼と並んだ像がたくさんありました。 その過去の七仏が通して説いていた言葉『七仏通戒偈(しちぶつつうかいげ)』の 一偈とかいう説教のあっけないほどのシンプルさにちょっと感心したので 最後に一言……

仏教はこの一偈に帰する……とか……勿論、今の世の中、こんなこと真顔で言ったら 頭が壊れたとしか思われませんので、御用心、御用心。 再見!

莫高窟への道→


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