中國西域旅行記 - その 11 -


17.続・莫高窟(モーカオクー)

 「このあたりで地面の盛り上がっているのは清朝以降の人たちのお墓なのです。」 話しだしたのはガイドの蔡さん、昼食のため敦煌へと向かうバンは砂漠を一直線に 貫くアスファルト道をとばしている。 「清代に造られたお墓はほとんど暴かれてしまっています」。 そう思って見ると、なにも無いと思っていた砂漠のそこここに強い日差しの 下で微妙な陰影を持った土の隆起がある。

 12時少し前にホテルへ。すぐ昼食になる。うどんだと思えるものや スープだと推測できるものなど結構豊富にあまりおいしくない料理が出る。 唯一おいしかったのはカエルの脚を甘辛く煮たか炒めたものだった。 料理にするにはカエルがやや小振りじゃないかと思えたが、話に聞いた 通り確かに鶏肉に似て淡泊でくせが無い。ただこれがボウルに山盛りに なって出てくるのだ。カエルを見るのも嫌な山崎氏が悲鳴をあげる、 「オレはカエルが嫌いなんだって!」。もちろん、共に旅する者として 山崎氏の健康を気遣う我々はこのおいしいカエルの脚をみんなで奨める。

 午後は2時出発、まだ一時間半以上もあるので飛天商場を冷やかしに でかける。この4階建ての建物には'70年前後のデパートをどこか思わせる 懐かしい感じがする。地元の人たちは、うやうやしく展示してある ちょっと手の出にくい値段のついたあこがれの電化製品なんかを 見てから服を買って、食事して帰るのだろうか。

 昨日来たときに見かけた夜光杯のあった土産物売場へ行く。夜光杯とは 祁連山(きれんざん)で算出する石を削って作った薄緑または深緑をした ワイングラス様の杯で、酒を満たし月の光にかざすと妖しく光って 見えるというもので唐代の漢詩にも登場している。石の厚みが薄く、 光がほどよく透き通って来るものが良品だそうで、最上級品には紅い ものもあるという。敦煌賓館のすぐそばの専門店は外国人向けのようで、 安い品で良いから欲しいという者には向いていなかった。端のひび割れた 青板ガラスのショーケースのなかに4つほど夜光杯が並べられている。 「あれ(チェー)、それ(ナー)」と指差して、全部見せてもらう。光の 透りの良いのがあった、二つで64元('91当時で1600円強、最近の レートだとその7割くらい)、まけてくれと言ってもまけてくれない。 やっぱりデパートじゃ値切りは無理か?、“言い値”で買う。 まだ時間がある、昨日、鳴沙山に行く途中に見た見事なポプラ並木を 写真に撮りたくて、南の街外れまで行こうとするが、思ったより ずっと遠い。あきらめてホテルに帰ろうと時計を見ると出発まで 時間が無い! ホテルまでのどが焼けそうになりながらの炎天下の ジョギングをやるはめになる。

 14:40に再び莫高窟へ。結局20窟あまりを見た。いくつか簡単に 紹介しておこう。第16窟は中心部が晩唐に造られ、壁の絵はは西夏時代に 描かれたもので、途中の壁に隠し窟の第17窟、通称“蔵経洞”がある。 17窟は今世紀の初めに王圓(おうえんろく)と言う僧が発見したもので 中には四万五千巻もの絵画と経典が入っていた。“隠し窟発見”の報を 聞いたイギリスのスタインが買いつけたあとは、まさに「閉店まぎわ 持ってけ泥棒!」といった感じで、スウェーデンのヘディン、日本の 大谷探検隊、最後にロシアの探検隊が次々に駆けつけて二束三文で 買取り、清王朝が禁輸策を取ったときには“売れ残り”の一万五千巻を 残すのみであったと言う。他の窟でも、台座ごと仏像が無いものや 絢爛豪華な絵物語の肝心の主人公のところでぽっかりと白く漆喰の壁が 剥き出しになっていたりする。探険家・冒険家は歴史で見ても墓泥棒の 兼業でやっているようなのが多いし、尊敬すべき登山家にしても初登頂・ 初ルートの美名のもとに、彼等の言うところの“聖なる山”にゴミを ごっそり捨ててきたのだから程度が知れる(……あぁ! 勢いづいてなんて ことを! でも、最近流行の“冬期初”や“モンスーン季で初めて”や “無酸素初登頂”を売り物にしている登山はほとんど変態趣味だと思う)。

 脱線した。ほとんどの窟に言えるのだが、壁も天井もすき間無く絵と 彫像で埋めつくされている。初唐の第329窟など3センチ角くらいの 小さな千仏の絵が四方の壁全面を天井まで埋め着くしている。昔、 かじった文化人類学の「空白(空虚)への恐怖」という言葉を思い出す。 人智を越えた執念が千年かけて千の窟を穿ち、それを千仏で 埋めつくしたのだろう。窟内で出るのは溜息と感嘆の 声ばかりである(涼しいし……)。そして、この壮大な遺跡を神妙に 見学をした一行は、多いなる満足をもって外界に出て橋のたもとの 露店でぬるいスイカやブドウに喰らいつくのだった(知り合いには 見せられん)。

 ところで、莫高窟は遺跡なのでそれを管理する研究所がある。 調査部、修復部、接待部と分かれている。接待部と言っても別に 酒を飲んでカラオケに行くわけではなく、各窟の案内をする係で 具体的には、団体客を案内するとか比較的大きい窟の入り口で見学者に 対応するらしい。接待部の多くがあの北京大出身だそうで、蔡さんの 知り合いばかりとのこと。そういえば、薄暗く狭い窟の入り口で 細かい字の並んだ分厚い本を黙々と読んでいる姿が妙に印象的だった。 年齢的に見ても2〜3年前にここに来たようである。

 そうして、莫高窟に別れを告げる。メンバーのほとんどが二度と ここに来ることは出来ないだろう。車中、再び蔡さんが話しだす。 普通、現地ガイドは決まりきった日本語文をまる暗記しているらしくて、 観光と関係の無い話になると途端に目を白黒させる人が多いのだが、 彼は日本語をある程度自分のものにしていて、よくしゃべってくれた。 「このあたりの山や鳴沙山、長沙山にはまだ野生のウサギやラクダ、 狼もいます」。そして、南のぎざぎざとした茶色い山塊を指差す、 「夜、あの山に仲間と一緒に四時間くらいかけて登って、山頂で ラジカセの音楽をかけて聞くのが楽しみなのです」。外に聞く者の 無い山頂で彼等は何を聞き、話しているのだろうか……。

 五時すぎだが、まだ昼下がりのようにに陽は高い、敦煌民族博物館と いうところに寄る。結婚や長寿の祈りの儀式の様子が紹介され、 清代の農民反乱の英雄の田鋪(?)とその仲間の像がある(とメモには 書いてある)。まだ明るい夕食時、ツアコンのN氏が言う、「今夜の 列車は二時間半遅れです」。そう、上海から南京に行くときに乗った 路線は遠くウルムチ、トルファンまで伸びているのだ(今はもっと先まで 続いている)。N氏がつけ加える、「大陸横断の列車なので(列車の 時間は)全く保証出来ません!」。“大陸横断!”、このセリフには 有無を言わさず納得させられてしまうものがある。窓の外がやっと 暗くなる、今夜も蔡さん逹はあの山に登っているのだろうか。

 ポプラが風に吹かれ、葉が乾いた音をたてる。その音を土地の人は 鬼の拍手だと言う。紫の闇が東の天から降りてくる、鬼どもが拍手を しながら砂礫の中から姿を現わす。砂漠の夜が来た。


18.第六届敦煌之夏

−The Summer of Dunhuang of Chinese Silkroad−

 明日へのエネルギー補給としかいえない夕食を食べたあと、 ホテル(敦煌賓館)の別棟の昨夜はディスコをやっていた(中国も 変わった!?) 2階で民族舞踊を見せて呉れるというので行ってみる。 何でも列車が遅れるお詫びだそうである。

 別棟の二階は細長い小学校の教室ほどの広さで、楽器の準備や 化粧をしている人の顔になにやら見覚えがある。なんと、つい さっき食堂にいたウェイトレスさんと楽団のメンバーなのだ。 部屋の前の天井からビロードで出来た垂れ幕にちゃんと名前も 出ていて、第六届敦煌之夏(The Summer of Dunhuang of Chinese Silkroad)という立派なものである。観衆は30〜40人、日本人以外の 外国人もいて、後ではヨーロッパ人らしい連中がごついTVカメラで 撮影している。

飛天の舞→   ←インド風の踊り

 最初の出しものは、8人の美しい姑娘(クーニャン)が飛天(天女)の 舞を踊る。観衆から溜息が出る。次にいきなりおばさまが出てきて 北国の春を日本語で歌う(この歌は食堂でも演奏され、この後も 何回となく聞くはめになる)。つぎに武将のいでたちの女性が 勇ましく行軍する様子を演じる。馬にに乗り、オアシスでのどを潤す。 宝塚歌劇団を思い出してしまったが張騫の西征(BC138〜126)を演じて いるらしい。つぎは胡弓の演奏、ぎこちない夕焼け小焼け(もういい!)の あとにゆるやかで軽やかな民族音楽を奏でる。 三番目には男性独唱、朗々としてのびやか、空の形を弓に喩えて 蒼天穹(そうてんきゅう)と呼ばれる中央アジア独特のまっ青な空の 下の緑の草原が見えるような歌声! つぎにもう一度小型の胡弓の 演奏である。いかにも芸術家と言ったタイプの眼鏡をかけた線の 細そうな演奏者が椅子に座る。演奏が突然始まる。激しい演奏は 駿馬で荒野を早駆けするかのように続き、ゴールを駆け抜けるように 突如として終わる。一瞬の間の後にやっと拍手が出る(この人が 食堂のウェイターとは!)。次が、良く分からなくてなにかいばって 偉そうな父親と二人の娘のコミカルな物語らしい。つぎの踊りは 手や視線の動き、腰つき(ウフ!)はもうほとんどインド風で中国の 踊りには無い艶めかしさがある。そう、ここはシルクロード、 文明の交差点だったのだ。最後に民族歌をデュエットで歌い全員が 出てきて、皆様ありがとうと言った感じでエンディングとなる。

 ←胡弓演奏


19.再見敦煌

 ホテルの舞台が終わっても柳園駅への出発までまだ1時間ある。 そこで4、5人で夜店に出かける。今夜も、東西歩いて20分も無い町の 中心街にびっしりと夜店が出ている。昨日、肉饅頭(包子-パオズ)を 食べた屋台にいく。一皿8個で一元五角(約40円)。昨日はここで2皿 食べて3元払った、今日も2皿を5人で食べて3元払おうとすると5元だと いう。日本人だと思ってふっかけてきたのか? 一気に緊張する4人。 『昨日と違うじゃないか?』中国語が一番できる渡辺氏が昨日と同じ ように話をしだす。『そうだ、(昨日と)違う!』年長の少年が キッパリと答える。二人のやり取りが続く。いつものようにまわりで 興味津々で伺っている地元の人たちが、こっちを息を飲んで見守っている。 話をしていた渡辺氏が突然爆笑する、そして事の次第を4人に説明する。 なんとハシ代が入っているというのだ、それも昨日と今日との分! そう 言えば、昨日2皿で3元だねと言ってお金を払ったとき何か言いたそうに していたが……。割バシ一つで2角(5円)なり! 5(人)×0.2(元)× 2(日分)+3=5元ということなのだ。道理で他の人たちはあの熱い包子を 手で食べているわけだ! 5人が大笑いし、周りで心配そうに見ていた 人たちもつられて笑いだす。そばでは道端で人形劇が乾いた太鼓の リズムに乗って始まり人垣がわっとできる。 髭をはやした人形が人々の頭の上で舞う。

大道人形劇→ 

 ここで、ものすごい混雑の中で4人とはぐれてしまう。日本にも ある揚げパンそっくりのねじれた棒状のパンを買う(“美味しんぼ”に 出ていた朝食用の油条(ユーチャオ?)というものらしい)。見かけより 硬くて微かに塩気がある。のどが渇いたので、ジュース屋を見つける。 昨日の昼に買った袋入りジュースは安いが薄かったのでビン ジュース(5角)を買う、おばさんが何か言う。ビンは返してくれと 言っているらしい(ハシ代騒ぎのおかげで、すぐ気がついた)。座っていた 椅子をすすめてくれるが、そばにいた小学生ぐらいの女の子が 座りかける。おばさんの娘さんらしい、もう一人妹もいる。二人して しげしげとこっちを見ている。ジュースを優先して飲んで席を立つ。 「再見(サイチェン)!」(さよなら)と手を振るとはにかみながらも 手を振ってくれ、おばさんがほっほっほと笑う。いい一日が終わる。

 ホテルでは、またあの小型バン二台が待っていた。柳園まで約130km、 二時間ほどで着くという。空には満点の星がほとんど瞬きもせずに 輝いている。だが、行く手にこの旅最大の苦難が待ち受けているとは 誰も知らなかった(そりゃそうだ)。


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