中國西域旅行記 - その 3 -


5.南京寸望

 南京駅に着いたのは3時、5時には夕食でその後、すぐ空港に向かうとのことである。 どこへもいけないかなと思っていたら、さすが日本の観光ツアーとCITS! ちょっとくたびれたバスが駅前に待っていて、それで南京長江大橋を渡ることとなる。

 南京駅から北西にしばらく走ると、ずっと向こうに全長6.7キロの長大な橋が見え、 続いてどっちに流れているのか最後まで判らなかった長江が姿を現わした。 橋の全長のうち三分の一くらいは陸上部分だが、 折からの薄曇りのせいかずいぶん向こう岸が遠く見える。 私は神戸市出身なので明石市と淡路島の間の明石海峡を思い出し、 ついでに雑談のあいまに授業をして天晴なくらい進むのが遅かった 高校の地理と歴史兼任の先生のことも思い出していた。 師曰く「この頃日本に来た中国人が瀬戸内海を見て『日本には大きな河が有る』と 報告したんだそうだ!」。

 大橋の南京側の橋脚は内部が橋の記念館になっていて屋上からの眺めが非常に良い。 橋は上が自動車道、下が鉄道になっている。長江の岸には桟橋があり、 泥色の河に平べったい船が浮いている。

 本当にバスで南京長江大橋を往復だけして橋にほど近い雙門樓(双門楼)賓館にゆく。 しかし、まだ夕食に間があるというのですぐそばの市場に行くことになる。 幅3メートルくらいの道をはさんで仮設の店がぎっしり並び、 道にまで商品がつまれている。 夕方のせいか、今朝見た上海の市場より生活臭に溢れている。 当然のごとくなかなかの騒々しさで、 もう日本じゃ見られない買い物カゴを下げた奥さんが店のおかみさんと GATウルグアイラウンドより鋭い交渉をしている。 ……“ほれ見てみぃな、この一束一クァイの青菜ちょっとしなびてキズが多いでぇ、 二つで1クァイ5毛にしてんか?” “なに言うてはんのこの色見たってや! ええ色やろ? ほかの店にはちょっと無いわ、2クァイや!” “そんなこと言わんと遠いとこから来たんやから1クァイ7毛にしてえな” ……と言った具合であろう。 こういうところに来ると何か買わないと気のすまない私は 蘋果(ピングウオ=リンゴ)を一斤(500g)買った。 三個で一クァイ五毛。 実際の会話では元(yuan、ユアン)とはまず口にせず、一抉(註1)(イークァイ)と言う。 十分の一元の角(Jiao、ティァオ)も毛(mao、マオ)と発音するが、 百分の一元の分(fen、フェン)は変わらない。

 ここ南京は、周代(BC11〜8世紀)に金陵と呼ばれていたころから 歴史の激変にさらされて来た都市で、先の世界大戦も例外ではない。 8月15日まであと5日だったが、南京担当の中国ガイドは何も言わなかった。

 夕食を食べてあわただしく空港へ。 空港のロビーでいつ飛ぶのか分からない飛行機を待っていると、 テレビでドラエモンをやっていた。 中国語でしゃべるのび太とドラエモンほどエキゾチックと言うものを 感じさせるものはなかった。

 飛行機は中国西北民航のBAe-146と言う中型ジェット機で、 3000mくらいの雲の中を飛び続ける。 “機内食”はビスケット(特脆椰 夾心餅と言う名の通りとても脆い)と 缶入りの椰子の実ジュースと干したキンカンと まるで遭難したときの非常食のようなのである。 そしてとどめの干し葡萄が配られ雲海に夕日が沈むと西安に着陸した。 北京時間で午後九時である。

(南京長江大橋)→南京長江大橋


6.西安今昔(1)

子夜呉歌(李白)

長安の都を月が照らし
家々からは衣を打つ音がし、
秋風はとめどなく吹き続ける、
何もかもが玉関(の向こうで辺境を護る夫)を想いださせる。
いつになったら外敵を平定し、
あの人は帰ってくるのだろうか。

子夜呉歌: 東晋時代、子夜という名歌手の作った メロディに合わせて作った歌。
李白: 盛唐の代表的詩人、酒を愛し酒仙と呼ばれた。

 西安(シーアン)も約三千年前の周王朝の初期の王都・鎬京(豊京)から栄えた街で、 その絶頂期は秦の始皇帝(在位BC247〜210)の頃の咸陽のときと 唐王朝(618〜907)の長安のときである。 そしてシルクロードの西への玄関であり東の終点である。

 今夜のホテルは唐華賓館、何でも日中の資本協力により造られたとかで 塀に囲まれたホテルの中にはどういう訳かお稲荷さんのようにやたらと鳥居が立っている。 中はきれいで大きく明るい! 服務員がにこやかに挨拶する“こんにちは”。 ホテルの中にいるのはほぼ100%が典型的な日本の団体旅行客である。 『ここは日本のホテルだよ』高桑氏が面白くなさそうに言う。 西安のガイドは李さんである。

 翌8月11日、天気は良好、暑くなりそうである。

(華清池)→華清池

 まず最初は華清池(ホアチンチー)に行く。 唐の玄宗皇帝(在位712〜756)が傾国の美女楊貴妃と過ごした離宮であり、 このあたりには珍しい温泉の湧くところでもある。で、また漢詩の出番である。

漢皇重色思傾国..

 勿論、これは白居易(白楽天)の長恨歌(ちょうごんか)のさわりで、 大意は『漢の皇帝(実は唐の皇帝のこと)は女好きで、 長年美人を探していたら楊と言う家に素晴らしい美女が居て 彼女がニッコリするだけで宮中の厚化粧の美女は顔色を無くすほどだった。 華清の温泉に入れたら体はポッチャリして、肌はすべすべ、髪はふさふさし、 なよなよしてとても艶めかしい。 おかげで、皇帝は夜ふかしばかりして朝の仕事もしなくなった』。 実は楊貴妃は玄宗皇帝の実の息子寿王の妻でそれを親父が取ってしまったのである。 開元の治という善政を行った皇帝の政治もこの後乱れ、 安禄山父子による安史の乱を招く。 楊貴妃は殺され、玄宗自身も失意のうちに退位する。 その安禄山にしても楊貴妃に取り入って出世したイラン系のソグド人の 節度使(雇兵軍団の司令官、10節度使のうち3節度使を彼は兼ねた)であり、 挙げ句の果てに子の安慶緒に殺されてしまうのである。 なんともどろどろした歴史の舞台だが今は完璧な観光地で 中国各地からの観光客でごったがえしている。 楊貴妃が入ったと言う浴場はタテヨコ10メーター以上の石造りのものだが 今はほこりをかぶっていてみるかげもない。 他の建物にしても戦後建てられたものが主である。

 こんなものかいなと山のほうに近づいていくと、 少し様子の違う案内板のある建物がある。 蒋介石辧公室(JIANG JIESHI OFFICE)の立て看のある部屋があり、 その隣の部屋のガラスが割れて貼紙がしてある。 “これは西安事件のときの弾痕です”と中国語で書いてある。 『西安事件?』記憶に無い事件の名前だが蒋介石が関係しているらしい。 惜しいことに歴史の生き証人のような同じツアーの御老体の姿が見えない。 帰ってから調べてようやく判った。 西安事件とは1936年12月12日、満州事変で殺された張作霖の息子張学良と 東北軍の仲間が西安入りした蒋介石を監禁した事件で、 これをきっかけに国共合作が成立し、抗日戦線の統一が為されるのである。 ……山川出版の世界史用語集持ってて良かった!

窓ガラスに残された西安事件の際の弾痕←(窓ガラスに残された西安事件の際の弾痕)

 ということは、何と55年前の弾痕が残されているのである。 さわろうと思えばさわれるところにある弾痕の生々しさ! やはりダテに中国三千年じゃないこの執念深さである。 世界史が脳みそバーンの人に言っておくと 第二次世界大戦後、国民党軍と共産党軍はけんか別れして国民党は台湾に逃れ、 張学良は台湾で軟禁されたのである。

 これで話は終わらない。 張学良本人はまだ生きていて1990年に名誉回復し、 我々がここを訪れるわずか2か月前の1991年6月中旬に米国から この同じ場所に来ていたというのである(新聞記事:朝日新聞1992年4月30日)。

(あら生きてたの!の張学良)→

 歴史はなかなか死なないようである。

〈今回のあとがき〉

 漢詩に年号、歴史上の人物がゾロゾロ出てきてうんざりと言う人もいるかも 知れませんがこれを機会に漢詩などいかがでしょうか? 高い本より500円くらいの高校の参考書のほうが 親しみやすいようです(ラインマーカーで線を引かないように!)。

註1: 「抉」と書きましたが実際には土偏です。

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