中國西域旅行記 - その 2 -


3.上海の夜と昼

 上海はアヘン戦争後の1845年から1949年までイギリス、アメリカ、フランス、 そして旧日本によって統治されたいわゆる祖界として中国政府(清朝)の主権の及ばない 都市であった。 国際自由港湾都市といえば聞こえはいいが、実際は大陸の権益を喰らい合う連中の 半ば無法化した魔都であった(そうな)。

 さて、前回書いたように南京から飛行機で西安に行く都合上、 翌日の上海観光がなくなったこともあり、夜の街に出ることにした。 もちろん一人ではなく、部屋の相棒となった山崎氏に渡辺氏、高桑氏の四人である。 気温は30度くらいだろうか、むっとする熱気は真夏の京都に似ている。 街はメインストリートの一つの淮海路(ワヘイルー)ですら薄暗く、 夕涼みらしい人たちがナトリウムランプの明かりばかりが目につく通りで 床几(しょうぎ)などを持ち出して中国将棋などをしている。 開いているのは点心(喫茶店)や飲み屋らしきものが数軒で、 あとはスイカ売りの露店がやたらとある。 タングステン電球に照らされた不揃いなスイカの値段は一斤(500g)で 2角(約5円)くらい、上海では水道の水は地元の人でも飲めないそうで スイカは飲物代わりらしい。 そのせいか道端はスイカの皮が投げ捨てられ、積み上げられている。 ほとんどが二階建ての家々はまだ9時なのに窓が暗く、 寝静まっているのかと思ったらTVからのものらしい光が部屋のなかでちらつく。 高い電気代を節約するためらしい。 話によれば上海の一般家庭では扇風機もまだ普及していないそうである。

朝の上海  通りから横町を覗くと京都などの町屋と同じようにいくつかの建物で 共有した中庭があるが、まっ暗でちょっと入る気になれない。 JVCの巨大なネオンサインのあるテレビ塔を目印にして歩く。 薄暗いなか2車両連結のトロリーバスが走る。 東に曲がりポプラ並木の淮海路をタラタラ歩いていく。 並木の暗がりからスルリと自転車が現れる。 『お兄さんタチ、カラオケやりませんか?』 ぎこちなくてどこか恥ずかしげな声がする。声の方を見る。 白いシャツのやせた男がいる。愛想笑いなのか、薄暗闇のなか白い歯だけが目立つ。 『オンナのコも一杯イルヨ!』 多少怪しい発音で決めゼリフを言う。四人とも首を振り、渡辺氏がなにか言う。 『不要』(要らない)と言う声が聞こえる。構わず歩き続ける。 男はしばらくついて来たが、やがて蒸した夜気のなかに消えた。 一時間半ばかり歩いて冷房が効いた部屋へ戻る。

 翌8月10日は7時半に朝食、朝がゆだ。 春雨のスープにクルトン?かと思ったらカリカリに揚げた豆腐が、 そして別の皿にはレバーの煮物そっくりの豆腐のしょう油煮がある。 豆腐発祥の地は中国なのである。 9時過ぎの出発までまだ間があるので朝の街へでかける。

 大通りは信号が変わるたびに洪水のように押し寄せる自転車の河を トロリーバスが次々と走っていき、小魚のように歩行者が横断する。 ホテルのすぐそばの市場に入る。 スイカや、巨大な瓜といった野菜がドカドカと積み上げられ、 牛・豚・羊の肉が塊のまま並べられている。 朝の涼しいうちに一日分をしゃべるつもりなのか 上海っ子達の声が武骨なアーケードに響き続ける。 その騒音の中に活きの良いニワトリやウズラ、ガチョウの声が入る。 でこぼこの舗装の上にはナイロン網の中でカエルが跳ねている。 「カ、カエルだ!」部屋の相棒の山崎氏が悲鳴を上げて言う 「オレはカエルが嫌いなんだ!」。

(サァサァ活きのいいカエルだよ!)→サァサァ活きのいいカエルだよ

 おいしそうな揚げ饅頭が売っていたので 『一个多少銭(イーゴ・ドウシャウチェン)?』(一個いくら?)と尋ねてみる。 途端に何事かわめき返されるが、これが全く一言も分からない。上海語らしい。 諦めて、洗濯物がはためく小路を通って別な通りへ。 未練が残ってホテルに帰る路の途中で見かけた包子(パオズ、≒肉饅)を二個買う。 その途端、誰も並んでいなかったその包子屋に近くにいたらしい 4〜5人がバタバタと並ぶ。 面食らったが、どうやら私たちが包子を買うのを見てから並んだらしい。 後々、これが思い過しでないことを敦煌で確認することになる。 ちょっとしょっぱいがおいしい包子は二個で五角(約13円)。


4.車窓から(南京まで)

 9時半ごろ、バスでホテルを出て上海站(シャンハイジャン)(上海駅)へ。 大きな駅前広場に大噴水がある。 中国の火車(列車)の等級は大きく分けて軟座(一等)、硬座(その他)の二種で、 寝台なら軟臥、硬臥となる。 料金差は約3倍で外国人はどちらも中国人の倍取られる。 中国国内移動の重要な手段であり、12億(誤差0〜+1 or 2億というのがすごい!)の 人民が利用する上、この時期(八月中旬)は中国でもお盆に当たるため 切符の取得は航空機を含めて至難を極める。 でなければ、上海から直接西安に飛んでいたのだから……。

上海駅構内  日本でもあまり見ない大型電光掲示板のある軟座専用の待合室から駅のホームへ、 線路の間隔が広い広軌(ちなみに新幹線は世界的基準では標準軌)の 大きな列車が入ってくる。定刻どおりに発車する。 軟座は6人でひと部屋で夜は寝台(軟臥)になるようだ。 窓際には白いクロスの掛かったテーブルの上にふた付きのお茶のコップがある。 お茶の葉をコップにいれコルク栓の魔法瓶のお湯を注いでしばらく茶の葉が沈むのを待つ。 連結器が今一つなのか加減速時にゴンと来るが、揺れはわずかである。 独特の香りの味の薄いジャスミン茶を飲んでいるうちに11時に 蘇州(スウヂョウ SUZHOU)へ着く。 構内には赤地に白でなにかの標語がデカデカと書かれている。 どれも比較的最近に描かれたもののようだ。 12時頃から食堂車で食事、メニューはトマトと卵の料理、 タケノコとキュウリの炒めもの等々…… そして、生前のお姿が良くしのばれるナマコの煮付けと ビール(北京{口卑}酒(ペキン・ピーヂウ)という銘柄)がでる。 まぁ、列車のなかでは味にぜいたくは言わないほうが良いのでしょう。

 窓の外には水田や畑そして水路の間に郊外の整然とした住宅街と駅近くに目立つ ごちゃごちゃとした街路が現れる。 時々泥水をかぶった畑や道路がチラチラ見える、 ほんの1〜2週間前に中国南部を襲った大水害のあとのようで、鉄道が回復したのも最近らしい。 やがて無錫(ウーシー WUXI)の駅に長大な列車が停車する。 反対側のホームには大きな岩が山とつまれている。 こちらの飾りっ気のないホームでは乗降客と物売りが どちらものんびりと果物を食べたり、売ったりしている。 上海でもそうだったが、乗り降りする人を見る限り ガイドで読んだようにすさまじい混みかたではない。 二時半ごろ、車内をうろついて席に戻ろうとすると部屋の前の廊下で人だかりがしている。 赤ん坊とその母親らしい女性そして服務員(乗務員)が5、6人。 そのただならない様子のなかに同じツアーの人がいる。ガイドのN氏が来る。 「赤ん坊が病気で呉(くれ)さんが診ているんですよ。 なんでもこの呼吸だと危ないとか言われて……」。 呉さんは日本国籍の華僑でお医者さんなのだとのこと。 薬を飲んだ赤ん坊を連れその家族は次の駅で降りていった。

 3時ごろ、列車は南京に着いた。長江(揚子江)の流れる都市である。

 *中国語には北京語、上海語、広東語等の方言があり表記や発音がかなり違う。 例えば、首都の北京(ペキン)は上海語ではポチンと発音するし、 謝謝(シェシェ)は謝謝儂(シャヤノン)となる。 北京語をもとにした普通話(共通語)はどこでも通じるが、 上海の市場で商売まっ最中のおばさんに共通語での返事を期待するのは無理があった。


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