中國西域旅行記 - その 1 -


1.嗚呼(!?)憧れのシルクロード

 今から10年以上も前、1980年からNHKで放映された人気シリーズの「シルクロード」を ほとんど毎回見ていた。そのころは高校で習った世界史の知識もまだまだ 生きていて(今はミイラ化している)、天山南路を支配したのはあの国だっけと 思いながら砂漠と遺跡ばかりの画面を見ていた。 行けたらいいなと思っても、そのころはシルクロード周辺の国は秘密大好きの 旧ソ連や中国、この2つの国と何かと仲が悪くてしょっちゅう紛争を起こしているインド、 パキスタン、アフガニスタンに囲まれていて一般旅行者が行くことなど夢のまた夢の “秘境”だった(今以上にお金は無かったし……)。

 ところがあら不思議、10年後には有名な国境紛争地帯の中国・パキスタン国境まで通れるように なっていて、中国旅行のパンフレットにもシルクロードツアーが最後のほうに必ず入っている。 他のツアーに比べて割安に感じた(それでも私にとっては大金だったが)こともあり、 決心してJ社に申し込む。中国の法律上、10人以上でないと団体旅行にならないため 最小催行人員が10人と多いのに申込みが少なく、『(催行は)多分無理でしょう』と 旅行会社にいわれる始末。 しかし、お盆は中国でも交通機関が混みあい切符を取るため各都市で二日ほど足止めを受けるので、 10日程度の休みでは個人旅行でシルクロードにいくのは至難である。 しかたなく出発1月半前に10人いるから大丈夫と言ったI社に申し込むが、出発1月と3日前に無情にも 『キャンセルが相次ぎ、3人に減って(催行は)できません。』の電話、 半分諦めて昨日聞いたら三人しかいなかったE社に電話すると今日いきなり9人になったとの返事に即申し込む。 実はあとでわかったことだが本当はこの時点でまだ4、5人しか申し込んでおらず、 電話してくる人には今9人と言っていたらしい。

 とにかく夢のシルクロードにいけるとわかって付焼刃の中国語の勉強を始めた。 小学・中学と漢字のテストには悪い思い出しかなく、ワープロ慣れに従って ますます漢字を忘れている私にとっては漢字だけの中国語には恐怖すら感じていたが、 彼の地では大きなホテルのフロントを除いて英語は通じない(本当だった!)ということなので、 TV中国語と初心者向けの本によりなんとか急場をしのぐくらいの中国語を詰め込んで出発の日を待った。

 1週間ほど前に確定した(と思われた)ルートは 上海→西安→蘭州→敦煌→トルファン→ウルムチ→上海の11日間である。


2.そして上海

 8月9日成田に集まったメンバーはまるで日本人のサンプルのように多種多様だった。 各年代の夫婦が3組、結構お年の女性を中心とした三人組、華僑の人、 『茨城県てどこにあるの?』という驚異の質問をした都内の若い女性二人組、 そして男(=独身≒野郎)が6人である。 そして、まめで仕事熱心だが中国語は話せないガイドN氏である。

 12時47分成田を離陸する。税関の申告書には中国の文化に有害な書物・録音物・録画物の 持込みを禁ずと書いてあり、カメラ・ビデオはもとよりウォークマンの数まで申告しなければならない。 開放政策をとっているとは言え、鉄のカーテンのソ連(例のクーデター前でした)と同じ やはり社会主義国なんだなと感じる。 「おい、ジョン・レノンのテープなんてもってるとやばいんじゃないか?」 だれかが冗談を飛ばす。15時前には炎天下の上海(Shanghai、シャンハイ)にあっけなく着く。 やはり近い国だ、おまけに夏時間のため日本との時差はない。

 ノーチェックの税関を通って出たところにCITS(中国国際旅行社)の男女のガイド氏が待っている。 CITSは中国国内の外国人(団体)旅行者のための会社である。 細身の女性の黄(ホァン)さんは旅の全行程の、男性の張(チャン)さんは上海でのガイドを 勤めてくれるとのこと。 ホテルへいくにはまだ早い時間なのでパックツアーお得意の買物になる。 バスで友誼商店(日本語風に言えば友好商店?)に向かう。 人口1000万ともそれ以上とも言われる上海は近代的な都市で、 色鮮やかな企業の広告看板が広いきれいな道路沿いに“最高級”、“中国一絶”などの文字を並べる。 バイク、自転車、テレビと言ったところが人気商品らしい。 外国祖界時代の建物の説明を上の空で聞きながらこぎれいな二階建ての建物に着く。 インド旅行の経験からこういう雰囲気のところは値段が高いと相場が決まっているので 外貨の交換とウィンドウショッピングに徹する。 「我兌換外幣(註1)」(Wo duihuan waibi、外貨の交換をしたいのですが?)と言うが 店員がけげんな顔をする。2度言っても通じない。 日本語か英語でマネーチェンジと言えば通じるのだろうがそれでは面白くない。 「我要人民元」(Wo yao Reminbi,人民元を下さい)と言ってやっと通じる。 ただし、交換してもらえたのは外貨兌換券(別名FEC)と言われる紙幣で 原則的に外国人は中国国民の使う人民元はつかえないし、再び外貨に交換できない、 また国外持ち出しも禁止である。レートは一元26円(1991夏現在)。 うわさに聞いていたようなぶっきらぼうな対応は無いが、貴重な外貨獲得の場にしては 「不要!」(bu yao,要らない)の一言でどの店員もあっさり引き下がる。

 さてホテルへ、これがびっくり超近代的な42Fのホテル(←)! こんなすごいホテルが魔都・上海と呼ばれたころからあまり変わりない町並み(→)のなかに ニョッキリと立っている様子は異様な感じがする。 新築らしく内部は豪華で日本の衛星放送やCNNまで見ることができる。 あの料金でこのホテル?と思っていたら夕食は上海飯店というところになる。 安いのでしょう……きっと。予定では明日は上海市内を観光して、 飛行機で西安(X'ian,シーアン)に飛ぶことになっている。

 さて、夕食のメニューはサラダ、中国ハム、何かの煮込みの前菜カレー味の豚肉の煮込み、 空揚げ……となかなかのもの、ビールはサッポロ…ではなく海鴎*(註2)酒(=カモメビール?)。 そこで、ガイドのN氏がちょっとカン高い声で明日の予定を教えてくれる。 「エー、実は明日夕方飛行機で西安に向かう予定でしたがオーバーブッキングのためチケットが 取れませんでしたので、列車でいったん南京に向いそれから西安に飛びます。」 ハプニング一杯の中国旅行は早くもこのトラブルで始まっていたことを、まだ誰も知らなかった。

註1: 「幣」は実際にはその簡体字
註2: 次のような漢字。
    口勾
     升

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